2010ワールドカップから学んだこと

2010年7月12日
2010ワールドカップから学んだこと

アトランタ(CNN)-スペイン、初優勝おめでとう。王者にふさわしい戦いぶりだったよ。でもさあ、決勝の試合はひどかったねえ。決して「伝説の一戦」とはならないだろう。オランダはスペインの芸術的な中盤を計略やらペテンやらでぶち壊さざるを得なかった。でないと死ぬほどパスを回されてしまうからね。
しかしながら、オレンジのシニシズムは多くの人が彼らにはできると信じていた以上にやり過ぎた。スペイン人を挑発してあの名高い素早くショートパスをつないでいくスタイル(“tiki-taka”style)とは全然違う何かをさせようとする、どころではなくなってしまったんだ。
とはいえ最後にはベストチームが勝利した。でも、気になっていることがある。その日に最高だったチームじゃなくてトーナメントで2番目に良かったチームのことだ。準決勝を除けばドイツはスペイン人よりキレのあるフットボールをしたと思う。ビジャはその準決勝の後であまり機能しなくなってしまい、スペインはその念入りなショートパスの交換に見合った最終的な仕上げをするのに何度も失敗していた。そして、正直に言うと、その赤い軍団が7試合で8得点しか取れなかったことには理由がある。でもまあ、勝利は勝利だ。1点しか取れなくても帽子いっぱいに点が取れたとしても。
そう、スペインが最高だったって事を除けば、このワールドカップから得られたものは何だろう?
きっと、フットボールの均質化が継続しているって事がどのチームも同じようなスタイルを採用することを助長して、で、偉大なゲームが生まれなくなってしまっているんじゃないかな。選手達はいろんな国々のクラブを自由に渡り歩いていているから、そんなクラブ同士がCLで対戦することになっても見たことがあるようなチーム同士の対決になってしまう……。
最近ではたった二つしかプレーをする方法がないかのようだ。
大勢で守備をしてチャンスへつなぐ、もしくはスペインが繰り返し行ったように、ボールをキープし続けて相手の焦りを誘い消耗させることによって最終的にはゴールをおとしいれる。両方とも望ましい結果を得ることはできるが、必ずしも人にそう何度もイスを蹴って立ち上がらせるって程じゃない。
私が学んだ2番目のことは、フットボールにとって必要な手段は、どんなものでも取らざるを得ない時代になっているってことだ。ボールがゴールしたかどうかを確認するための技術、録画再生、5人以上の審判たち(現代サッカーのスピードにおいては、ゴールラインに一人置くと同時に、前半後半で主審が交代してもよいのではないか)。とにかく正確な判定を下すためにできることは何でもするべきだ。
こういったアイディアを否定する人もいるだろう。でももし、お金がかかるという理由で否定するなら運営団FIFAの2009年年間収支報告書を確認してみればいい。1億9千6百万ドルの利益と10億ドル以上の準備金があることが誇らしげに記してある。それは数ダースのカメラとリプレイマシーンには十分な金額だ。
そういった技術の使用は民主主義的ではないなぜならそれは世界標準にはなりえないからだ、と感じるかもしれないが、ティニータウン・ローバーズ対ミッキーマウス・ユナイテッドのようなゲームに5人の審判と技術的装置のバッテリーが必要だなんて、だれも言っているわけじゃない。大金と威信が掛けられているような最高水準の試合だけでいい。
そしてもし、これ以上の安全装置は欲しくない、人間性が失われてしまう、というのなら、まあその通りだ。ヒューマンエラーを除くのだから。そして、エラーを「良いこと」と定義する事など私には理解できない。
学んだことの3番目はフットボールのルールは進化する必要があるということだ。警告に値する違反の横行に対してはもう一種類のカード、例えばブルーカード、を導入する事について考えてみたい。なぜなら今のところ、その場でプレーをしている選手が癇癪を起してボールを蹴ったりするような一寸した違反も、危険なタックルと同じ様にイエローカードの対象なのだから。
2枚のブルーカードは1枚のイエロー、2枚のイエローは1枚のレッドカードと同等としてみる。こうすれば罰則は罪に釣り合うものになるだろう。そして最初の数分間の間に起きた小さな違反のために試合の大部分で選手や審判が機能不全に陥ることもなくなる。
また私は、決まりそうだったゴールを妨げたハンドに対するPKについても考えてみたい。アサモア・ギャンウルグアイとの準々決勝の延長後半において罰を受けなければならなかったようなことが二度とあるべきではない。ルイス・スアレスの「プロフェッショナル」なハンドさえなければ、彼はゴールを決めていたのだから。ラグビーにペナルティートライがあるのだから、サッカーにペナルティーゴールがあっても良い。
そして、けがの疑いがある選手のための中断についてだけれど、治療なんかのために試合を中断する必要がある選手は強制的に2分間フィールドの外に出してはどうだろう。もし本当に痛いのなら、少なくとも回復のためにそれぐらいの時間が必要なはずだ。もしそれが演技ならチームに不利益をもたらすことになる。そういう風にすればシュミレーションも急いでやめるんじゃないかな?
学んだことの最後は、フットボールが偉大な差別撤廃者だっていう考えはけして空疎なレトリックなんかじゃないっていうことだ。私にとって、アフリカでの最初のワールドカップを組織した人々に対する最大の賛辞は、延々と続くブブゼラの音―それはトーナメントの終わりまでにはアフリカ人と同じぐらい多くのノンアフリカンもその爆音を鳴らすようになったのだが―を除けば、その雰囲気と効率の良さという点でこのトーナメントはそれまでのワールドカップと何ら変わりはなかったということだ。
FIFAブラッター会長はアフリカならではのワールドカップを欲していたが、かなわなかった。そして、それで良かったのだ。私自身もアフリカ人なのだが、彼の言う“アフリカならでは”なんて植民地時代に根差す文化的な偏見に基づいたものに過ぎないんじゃないかと思う。
かわりに我々は、モダンなアフリカがモダンなワールドカップを主催するのを目撃した。それは多くの意味でそれまでのどのワールドカップとも変わらないものだった。そして、虹の国において、それはそうあるべき姿だったのだ。なぜなら、一枚の皮膚の下は、我々はみな同じかわらぬ人々なのだから。

Posted by: CNN World Sport Anchor, Terry Baddoo
source: http://worldsport.blogs.cnn.com/2010/07/12/lessons-learned-from-the-2010-world-cup/?hpt=C2